7年前に始めてインドに行った時、
ボロボロの小屋で暮らすたくさんの人を見た.
建築家に、こんなところでなにができるんだろう?
衝撃的な問題が、22 3歳だった僕に突きつけられた.
元来、国家など公共=お金のある側にサーブする建築家という職能には、
見るからにお金の無い、けれど楽しそうにそこで
暮らしている人達にできることなんて何もないじゃないか、
自分はなんて無力なんだろうか?
なんて、頭をガーンと叩かれた感じだった.
月日を経て改めて目にした
インドやネパールの住宅というか小屋群は、
やっぱり同じような印象を僕に与えた.
しかし、成長した目で見直すと
少し違った発見があった.
一つは、めちゃくちゃシンプルな工法でつくられていて、
それぞれの住宅における建築的差異性は、建具の色と細工だけだということ.
(ちなみに具体的には、
RCラーメン構造にレンガを埋めていくだけの工法で、
その前の時代は多分レンガ積みの礎石造.)
そして彼らはさらなる差異化の手法として、インテリアのカーテンを
ファサードのアクセントとしてうまくつかっていた.
少し都心を離れると、ネパールではガラスの無い住宅が多くて、
そういったカーテンのパターンがよく映える.
要するに、
建築的ヴォリュームにおける差異性は殆どできないので、
彼らは自分たちの手で操作できるパラメーターによって、
それぞれの小屋を差異化している.
それが、統一感に程よいスパイスを加え、
生き生きとした街並を構成しているのである.
こういう場所では、いわゆる建築家の役割は
今の中国における僕のように、技術的なコンサルティングも含めて
サービスを行って、村や町の人が誇れるような立派な建築をつくること.
建築は、発展や成長のシンボル/記号として、
重要な役割をもつ.
もちろん、機能的にも何か新しいものであったりして、
彼らの生活を補完するのだろうけれど、
重要なのは、外観や訪れて感じる空間の意味だと思う.
シゲルバンは、
こういうこれまでや現在のいわゆる建築家とは
真逆に、スリランカだとかで、彼らの工法や生活をベースに
新しい住宅を設計している.これも震災復興の一貫なのだけど、
前者がよりメンタリーなサービスに比重があるのに対して、
彼のサービスは非常にプラグマティックかつメンタリーなのであり、
それが彼が世界中の建築家に尊敬される所以でもある.
ただ、それが機能するのは震災だとかで既存のものが
消失した時のみであって、非常に限定的でもある.
僕はオルタナティブを考えたい.
彼らのいつもの生活の延長にあるものを建築したい.
多分それは、彼らの既存の小屋の代わりになるものではなくて、
小屋と共存する少し小さいものだと思う.
彼らの生活に今、どうしようもない程の不満や不便が無いのは、
彼らがそこで笑顔で暮らしている事実を目にしても明らかだ.
けど、
だから何もしない じゃなくて、
例えばいつも軒先に出ている彼らのための何かだったり.
ガラスとカーテンの代わりになる、カラフルな半透明パネルみたいに、
彼らの差異化への興味をより便利にするものとか.
それはもう、いわゆる建築じゃあないんだけど、
建物じゃあないんだけど、
そういう建築もあるんじゃないかな と.
もちろん、何も手を加えずに、彼らのなすがままを見ていたいという、
観察者的欲望は大いににあるわけだけれど.
全くなにをやっていいいか分からなかった頃の自分に、
こんな風な解答があるんじゃないかと伝えてみた.
建築って、建物だけじゃなくて、
問題解決や事実整理による新しいライフスタイルを補助する
プロダクト的なものまで含まれるんだと思う.