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architecture, design, art, film, memorandum

May 2012

ネットワークを育てる人

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rem koolhas というか oma/amoが作成した本、
project japanについての
日本記者クラブでのremの講演会映像を観た.

メタボリムズについての本なのだけれど、
内容としては、
戦後から高度経済成長期終わり80年代半ばくらいまでの
日本の建築を取り巻く歴史を取りまとめたような体裁らしい.
(僕は読んでない、、)

メタボリズムという発想は、
国家の急速的な拡大という、国家プロジェクトの一貫として
行われていたこと、
そのような建築家が中心になったようなプロジェクトは
近代国家では希有だったこと、
アフリカや中東では、アンチ欧米の中、モダニズム的な建築が求められ、
副次的に欧米からの距離があった日本のモダニズム建築家が
重宝されたことで丹下さんだとかのマスタープランがたくさんあったこと.
など、
建築の歴史が国や外交だとかの大きな文脈の中で語られているのは、
さすがamo という明瞭な切り口でおもしろそうだった.

ただ、
この本で一番おもしろそうだったのは、
rem自身もそう語っていたのだけれど、
丹下健三という人物のこと.


というのも、
丹下自身はメタボリストではなく、一つ上の世代であるし、
その意味でも注目する建築も無く、
当初このプロジェクトではあまりフィーチャーしていなかったらしい.
ところが、
取材を続けていくと、
どうも丹下はすごいらしい となってきたらしい 笑
そのような建築家も非常に稀で、かつ貴重で、
メタボリズムプロジェクトの発生に大きく寄与している
ことが分かってきた.

具体的には、
1つは、彼自身が既に有名な建築家ではあったけれど、
それを、当時一般家庭に普及し始めていたテレビというメディアを
効果的に使い、”建築家”という存在のレゾンデートルを高めた事.
2つめに、
黒川記章だとか、東大丹下研究室の門下生を、
積極的に外部でのプレゼなんかに表立って出させて、
”新進気鋭建築家”的なものをプロモートしていた事.
3つめに、
そういった弟子たちへの結婚相手の紹介のような、
プライベートな世話までいろいろとして、
横や縦の人の繋がりをつくっていったこと.


こんな人は、多分今の日本建築業界では皆無だし、
世界でも殆ど聞いたことが無い事例だと
remが言っていた.


今で言うと、
メディア的には安藤忠雄がそういう立場なんだろうけど、
そういったネットワークを構築するような人では無さそうだ.

槙さんも、素晴らしい人だけど、
メディア的、政治的にインパクトに欠ける.


要するに、
○○事務所 の枠を超えて、
建築業界だとかを代表していろんな所に繋がっているような人って、
いないよなー という.


都市計画家と政界 不動産業界 ゼネコン業界 は
けっこう太いけど、
ちょっと黒すぎるのか、茶の間的な場所への影響力って、
直接的には全然無いし.


丹下先生は、
本当に偉大というか希有な人だったんだなと、
藤森さんのでかい丹下本を読む気になれず、
あまり知らないままだったので、
またひとつ、気になる人物になった.

自分が自分が、
自分の事務所が事務所が じゃなく、
業界のため、ひいては日本のために動いてたような彼は、
宮台真司的に言うと、
まさに模倣的感染を引き起す、カリスマだったのか.
坂本龍馬みたいな.


既成事実をつくるところから


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前出のリュウエの対談本だとかも最近読んでいて、
そもそものつくり方のアプローチについて、
はたと思わされた.


そもそも僕の考え方は、
基本計画からラディカルに考えるような、
OMA/AMOみたいなのは、禿げそうになるくらい頭使わないとできなくて、
めちゃくちゃプロダクティビティが低いからNGで、
(実際、OMA自体も最近できてない気がする)
KENGO KUMAや内藤廣、Herzog & de Meuronのように、
スキン的な部分で建築的操作をしたり、
zahaやgehryのように、フォルムを操作するんだけど、
内部計画はしっかり守ったり、
BIGのように、ちょっとだけ計画にスパイスをつけつつつ
フォルムを操作したり するような、
要するに、基本的に世の中的にオーソライズされている機能は、
あんまりいじらない中でフォルムや空間を考えるのが、
スマートだし、おもしろいと思ってた.

こういうやり方をすると、
フォルムや表層のトライアルに終始してしまう部分もあって、
それはそれでしんどいのだけれど、
一番おもしろいところに、一番時間をかけられるとおもう.


一方、
リュウエや、対談相手のsou fujimotoだとかは、
自分がつくりたい、イメージしている空間ありきで、
あんまりそれを現実的なマーケットや、
施主が想像できる範疇の一般的な住まい方とは、
大きく乖離したものを、平気で提案している.
そこで彼は、
「僕の提案が気に入らなければ、早めに断って下さい」
という前置きまでつけて進めている.
(森山邸での森山さん談)


で、
できた家に住んでいる施主本人は、
意外と新しい住まい方を楽しんでいるようで、
それまでカーテンを閉め切って暮らしていた人が、
開けっぴろげで暮らしているらしい.

街に関しても、
金沢21世紀美術館では、パブリックスペースなので、
敷地内や内部を小学生だとかが登下校したりもしていて、
本当に街に開かれているみたいだ.


多分、
計画的にいけば、NGで僕は最初からつくらない.
だからつくれない.

ただ、
できてしまったことで、
できてしまった既成事実によって、
新しい住まい方や暮らし方が生み出されているのは事実で、
必ずしも、当人の生活の質を下げているとは言えない.
ただ単に、定量的であったり、常識的にNGなだけだ.


欧米の有名な建築家でそういうリスキーなことを
している人は殆どいないと思う.
だいたい、内部のプランは普通なもんだ.
そういう中で、
日本では、殆ど実験住宅のような建築が、
年に何件もできているわけで、これはおもしろい事態だだなーと思う.


個人的には、
その後の流通も考えての建築だと思っているから、
やっぱりそういうのをつくりたいとは思えないけれど、
BIG的な、ちょっと見方を変えて、おもしろい空間やフォルムをつくる
というようなアプローチを もっと磨いていきたい.


そいえば会社で、
プライベートの仕事でも建売り住宅みたいなのを設計して、
そこから少しずつおもしろくしよう みたいな人達がけっこう居て、
しょうもないなーと見ている.
やっぱり、最初に強くてエッジの効いたコンセプトが無ければ、
おもしろいものはつくれないだろうよ.

僕の場合はダイアグラムから.
さあ 今のコンペでおもしろいダイアグラムができたから、
次は面白いフォルムや空間になるよう、考えよう.

出会いの場


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最近、千住博美術館でハマってリュウエ詳細図集を読んでいた.
そこで、かれがプロローグで語った言葉が良かった.

彼の書籍の英訳版についての件.
日本語では、壁と屋根や部材同士の出会いの場を
”納まり”といい、うまく出会わせる事を”納める”というのだけれど、
そこで英語では、
"How things come together"
という表現が使われていたらしい.

まさに、どうやって部材同士が一緒に居るか?
もっとも最適な出会いと共存はなにか?
を考えるフレーズ.

ここ1 2ヶ月、ずっと詳細図の検討や調整をしていて、
あと1、2ヶ月はこういうのが続く.
本当に、どう出会って共存するか?
この出会いの把握と最低限ケンカしないように
するだけで、今の僕はお腹いっぱいだ、、、

ま そこの出会いばかり考えていても、
宜しくはないのだけれど、
考えもしなかった出会いとか発見すると、
ゾッとするよねぇ.


ここでいっぱい学んで、
次はもっとセクシーな出会いになるようがんばろう.

S造やってみたいなー.


有っても無いようなモノ


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小室先生の「宗教原論」を読んだ.
これまでの小室本の中では一番難解だった.
というのも、僕が宗教的バックボーンが殆ど無いから、、、
まあ そういう日本人のために書かれた本ではあるのだけれど.

この中では、
キリスト教 イスラム教 仏教 儒教 日本教(天皇教)について記述されている.
キリスト教や日本教については、これまでも
いろいろと彼の書籍で出ていたので確認程度だったが、、、
仏教 知ってるのと違いすぎて違いすぎて、呆然.
冒頭の”難解”というのは、この仏教のチャプターで、
仏教のキーである、
空 唯識 因縁 それぞれの説明がなされているんだけれど、
これらの関係の理解が難しかった.


まず、仏教の蘊奥は空観である.
その空観のキーワードが、唯識であり、
唯識の構成を説明するのが因縁の概念 という理解をした.


具体的には、空観とは、、、
形式論理学ではない、一種の超論理学を使っている.
つまり、有⇔無ではなく、有でもあり無でもある概念、それが空.
これを体系建てたのが、ナーガルージュナという紀元前の人.

説明として僕が最も分かりやすい例がこれ、
「ひきよせて むすべば柴の 庵にて とくればもとの 野はらなりけり」
柴を結べば庵になるし、解けば野はらに戻る.
庵の存在の有無は”結び”にかかっていて、
”庵”という存在自体が常に実在しているわけではない.
有名な、空即是色 色即是空 なんである.

ナーガセーナという空観の高僧はまた、自分を
形に縁って、感受作用に縁って、表象作用に縁って、形成作用に縁って、
識別作用に縁って、”ナーガセーナ”という名前が起こるのであり、
そこに人格的個体は存在しない.
と唯名論や実在論を否定している.

実際、
分子生物学的には、
人間の体は六ヶ月ごとに完全に細胞が入れ替わっており、
物質とみた場合、本当に全く別物になっているらしい.


唯識 とは、唯識所変の省略で、さらにこれは
「ただ(唯)識によって変じだされた所のもの」の略で、
認識こそが物事を作り上げ、決定している という意味.

この概念には、輪廻転生が挙げられていて、
転生するのは魂ではない何かであり、この何かを
説明するのが唯識.
日本の輪廻転生はヒンドゥー教的概念らしい.

唯識論では、所謂五感の他に第六識として、意識が挙げられる.
仏教は、煩悩を取り除くことを一義とするわけだけど、
この煩悩=我執 は絶える事が無い.これを断つために
その我執の根本を探った.その在処が第六識であると考えられた.
この第六識は、フロイトの無意識の底のリビドーと考え方は近い.
我執の中心はリビトーと言えるかも知れないが、
唯識論は我執全体の把握を目指した.


我執の本体をマナシキと呼んだ.
マナシキの奥深くにアラヤシキという識がある.
人間が行為(現行)をすればそれはアラヤシキに種子(シュウジ)として残る.
このように蓄積され、この蓄積を薫習(クンジュウ)といい、
そして、良い種子は良い現行を生み、良い現行は良い種子を生み、、、
というように相互関連していく.

そして、
この薫習された種子が全てアラヤシキに残り、この蓄積が
生まれる前も後も続いていく と考えられている.
つまり、阿頼耶識が輪廻転生していく.
遺伝子情報もまた、種子の一部であると唯識では考えられている.

これは、生得の知恵を説明するのに
理にかなっているし、魂は無くとも、因果律に基づいた輪廻転生が
できることを明確に説明している.



因縁または縁起は仏教の根本論理.
縁起は、原因→結果の一方的な因果関係で、単純因果、線形因果という.
因縁は、直接の原因を因 間接の原因を縁というところからきている.

仏教は、一貫して因果律に立つという立場で偶然を拒否する.
そこで、先に挙げた単純因果から複数の原因(主原因と補助原因)から結果が表れる、
複線型因果関係まで発展した.
ここで、
さらに飛躍したのがナーガルージュナの相互依存関係.
つまり、原因が結果に影響を与えるだけでなく、結果も原因に影響を与える.
経済でいう、デフレスパイラルのような関係性.
これを紀元前に既に構成していたという天才性、、、

先に挙げた唯識の種子と現行の関係はまさにこの関係である
というわけだ.


まとめると、、、
スパイラル状に相互関係していく種子と現行のデータが延々と蓄積された阿頼耶識が、
輪廻転生していく.
輪廻転生しているのは、○○という人格ではなく、阿頼耶識というある種のデータの束で、
これがその都度皮膚や臓器などのディバイスを纏っている何かで、
この何か がその表象や立場などの在り方によって名前を与えられて存在している.
長い六道輪廻の時間の中では、人間の一生なんてモノはそういう意味では
夢幻のごとくあるだけだ ということが 空 という概念か.







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