日本の田舎を旅していると見かける
廃墟.
今回の新潟の旅でもよく見かけたけれども、
何とも言えない、
こう 艶かしい 生っぽさが
あの空間には広がっている.
そう
好きなんだ.
100年も人が住んだあとなら
そりゃあ もう
人の油をすって 艶やかに光る木目や
華奢な柱.
薄明かり.
いい.
いいね.
一方、遺跡.
例えば、2週間後くらいにいる
アンコールワットや
以前訪れたメキシコのテオティワカンや
北京の故宮(あんなメンテが無いと最早遺跡.).
なんだかな
ぱっとしない.
もう カサカサの骨というか
肉も肌も無い、
空間の屍骸みたいな場が
それも たいそうにただっぴろく
尊大に広がっているんだよな.
昔の支配者の力とか科学とか
そりゃあすごいけれども
今そこにある美 にしか興味が無い僕には
いかんともし難い虚無感しか無い.
廃墟と遺跡.
一瞬、
スケールの違いしか無いようだけど
そんなことないな と
最近ふと思ったのだった.
なんだろうか.
ひとつは
スケールの違いに近いが、
そこで生に生活をしていた人が
ちゃんと表情を持って、
空間を利用していたかどうか.
これはある気がする.
生活の記憶 みたいなものが
そこかしこに 痕として
残っているのが
多分 なんとも言えない魅力となっている.
遺跡って 岩 でしか無いものな.
だとすると
愛された形跡のあるもの = 廃墟
愛された形跡のないもの = 遺跡
かもしれない.
たしかに
日本建築 つまり 木造建築で
100年も200年も使われている ということは
まさに 住人の愛が
家を生かしたわけで、
そこに愛が蓄積されてるものね.
それが カタチとして残っているから
家が その愛を 訪れた人に少し返してくれるのかもしれない.
遺跡も もちろん
愛はあっただろうけれども
それ以上に 憎しみがあって 相殺されたのか
というよりも
愛も消し飛んでしまうくらいの
長い年月経たからなのか.
解らないけれども
愛が貯まる空間 つくりたいな.
だから
廃墟 て もう一度使おうって
いろんな人が動いているんだろうな.
遺跡 て
もう このまま放っといてくれ的な
そんなオーラがある.
うん.
では
明日から まずはタイから
行って参ります.