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architecture, design, art, film, memorandum

March 2005

地方都市の崩壊


ここ何日間かの間、僕は古巣岐阜に戻り、
家族と旧友と過ごしている.

みな元気そうでうれしいのだが、
いつも岐阜に帰ってくる度に感じ、
憤りを覚えることがあるのである.

岐阜市の中心部の空洞化である.

これは本当にひどい.中心部の僕が高校生の頃は
まだ人がたくさんいて栄えていた商店街は、
もはやほぼ閉鎖し、夜の風俗店がある地域以外は、
もはや瀕死である.

さらに追い打ちをかけるように、郊外地域に
僕が知っているだけでも5つほど、ショッピングモールが
建設され、そこに平日休日問わずたくさんの人が訪れている.
人口40万やそこらの地方都市で、もちろん高齢化も進んでいる.
それなのに、この町は今や過去となっているのモータリゼーション至上型の
発展をいまだに繰り返している.

守るべき岐阜城(斎藤道三、織田信長の城である)の城下町の
町並みの中に、全く異質なマンション.
その道も車がメインの裏道である.
また、田んぼの中に建てられていく悪趣味な建て売り住宅たち.
誰がそんなに住むのか分からない、どこにでもある
マンション建築.
最悪である. 
完全に崩壊している.
この町に倫理は、文化はないのだろうか.

さらに、ヨーロッパでは次々に取り入れられ、
都市再生の一つの重要なツールとなっている
トラムでさえも、岐阜市では採算が合わないなどの
理由で今月限りで全路線が抹消される.
事実、岐阜のトラムに対する扱いは最低であり、
車との共存が全くうまくいっていないと言える.
いまだに車優先なのである.
環境はそっちのである.

こんな都市は多分日本中にごまんとあるのでないだろうか.

建築家が語るのはほとんど東京などの密集地域で、
かなりエキサイティングな場所ではあるが、
本当に目を向けなければならないのは、
こんな地味な地方都市たちではないか.
都市計画家の方々はどちらかと言うとこのような都市にも
目を向けてらっしゃるようで、
表層的な部分ではあるが、町並み保存などの
手助けや運動が行われている.

圧倒的に問題なのは、政治家である.
それを支える市民である.
しかし、そんな市民教育をつくるのも
政治家である.
最悪の悪循環.

絶望のスパイラル だ.

もちろん、現在岐阜市では、駅前で企業の誘致や、
文化交流の場の提供など、様々な試みは行われている.
しかし、もっと大きなスケールで
崩壊しかけている都市の補修を進めていかなければならない.

このような場合、一つは伝統などのバックグランドから
読み込まれたような建築群が妥当である.
僕が考えていきたいのは、もちろんこれらもふまえた上での、
何らかの新しい伝統や文化というアイデンティティの定義付けから
生まれる新しい建築形態で、
そこに都市全体の経済効果も十分に織り込んだカタチで
提案をしていきたいものである.

銀行系の都市コンサルよりは、
戦略としてしっかりと経済と暮らしを見据えたタイプの
ソフトとハードの提案.
これを故郷岐阜で実現させるのが、
僕の将来の絶対的タスクであり、一つの目標である.
そのために必要なスキルが、未だ明瞭化されていないのではあるが、
少しずつ、確かにしていきたい.

わからないことが



BLOGを始めてはや幾とせ


誰か教えてください

トラックバックて何ですか?????

まじ謎です 

そうだ京都へいこう


JR東海のキャンペーンにまんまと乗り、
日本の美を探求しに京都にEと赴いてきたところである.

今は実家で、高校までの思い出の若干詰まった
何だか空虚な部屋で、4月からのことを考えつつ、
とりあえず京都の思い出を綴ってみることとする.

今回の旅で、数日間ではあるが、
2年前に逃した場所に赴くことができ、
京都はほぼ廻ることができたと思われる.

京都御所
修学院離宮
西芳寺
竹寺
小川家住宅

これらが今回訪れた場であるが、それぞれ予約せねば
入れぬ場所で、前回涙を呑み、訪れられなかったところである.
苔寺(西芳寺)などは、参観料3000円という、
明らかにぼったくりではあるが、
もう一度訪れたいと思えるくらい、
素晴らしい庭園であった.
青木淳が著書『原っぱと遊園地』で語っていた、
本来の目的の後にできあがった空間、
その後転用され、生きている空間、
というものがあったが、それを素晴らしく高いレベルで
表現していた空間であると言える.
というのも、本来、寺の庭園として作られた空間が、
時間が経過することで、土地の風土と馴染み、
つまり苔という現象をそのまま受け入れることで、
自然と人工の圧倒的に美しいコラボレーションが
執り行なわれているのである.

こういうものを見ると、僕のつくろうとしている空間は
建築は、どういうものなのか、と
また深く深く考えてしまうのではあるが...
ともかく、素晴らしい庭園である.


もう一つ、学部4年時、何度も考察し学んだ都市という
事象を、京都を通して改めて東京と比較することで理解し、
興味をもったように思う.

圧倒的な強さ、時間の重み、伝統の力強さ.
これらに対して、屈するのでなく、対するのでなく、
すごく自然に、うまく利用して空間を構成している
京都の町並み.その結果、すごく新鮮で新しい空間が
生み出されている.
使い古された言葉で言えば、すごく素直に新陳代謝していると
感じるのである.
それに比べると、商業主義一辺倒の東京の都市の
貧相さに嘆かずにはいられないのである.
また、昔ながらの枠組み、この場合はグリッドであるが、
このスケール感や規律をある程度守り、
中心を維持しながら発展している京都は、
東京のように人種による住み分けのようなものは無く、
それこそヨーロッパの町と共通する部分が
あるように思われる.
さらに素晴らしいのは、現在そのような都市の表層を整えるような
手法は全国の地方でとられてはいるのだが、
それが表層で終わらず、昼夜終わらず、観光と生活が密接に
共存しているその分厚い空間性である.
これもやはり、先に述べたような、時間との共存が
重要なキーワードとなっているのだろう.
町並みが緩やかに、繊細に新陳代謝することで、
10代も20代も30代も60代も70代もすべての世代が
それぞれに共有できる空間性が少しずつ同じ空間に
生きているのである.
この部分は、かなり重要な点であり、これからも深く考えて
いきたい部分である.
しかし、そう思えば思うほど、これは各人のモラル、
都市の 国民のモラル、価値観の問題であり、
都市計画者という職業は、デザイナーではなく
社会学者や経済学者、文化人類学者に近いだろうと思わざるを得ない.
そして、建築家もまた、
芸術家ではく、デザイナーや文化人類学者であると言える.

もちろん目新しい空間、プランは興味深いし、
一つの発明ではあるが、実際に望まれ、つくらねばならないのは
文化や社会、さらに経済、自然も含めた包括的な視野を含んだ、
美しいプランではないかと思われる.
それが、ミースが新しい技術に傾倒しながらも、
シンケルやパラディオのプランを転用していた理由と同じではないのだろうか.
それが、時代意思で、建築なのではないだろうか.


改めて自分の立場を見つめることのできた機会であった.
そして、僕にとって時代意思は
自然、経済、文化それぞれとの共存である.
順番はどうであれ、注目され期待されている自然、
不可欠な経済、この2点がこれから僕がうまく折り合って、
学んでいきたい部分である.










ETERNAL SUNSHINE OF THE SPOTLESS MIND

エターナルサンシャイン WEB画面と音
という感触だけで見に行った映画だった.


当たり である.



まだ見ていない人が大半だろうと思われるので、
内容には触れずに話を進めたい.

恋の痛みを知り、拒否をしつつも
何度もそれを繰り返してしまい、
また拒否をし、また欲してしまい、
またその繰り返し.
ミスチルの唄でそんなものがあった気がする.
何度痛みを知っても 何度も繰り返し欲してしまう
というような詩

この映画は、そんな気持ちを2時間そこそこで
とてもうまくまとめている作品である.
さらに、監督が、映像畑出身のミシェル・ゴンドリー.
プロットとしても、映像としても
僕には文句の無い映画だった.

Eと見終わった後に話していて、人の心に残る部分というものは、
かくも違うのだな、といつも驚くのである.
映画が終わった後、エンドロールが終わるまで、
誰も立ち上がらないで干渉に浸っていたあの光景がまた、
あの映画の素晴らしさを物語っている、
と それもまた付け加えておきたい.

以下は内容に触れる部分になるが、
最後に、二人がお互いの共有できない部分を
最低の表現でお互い聞いてしまったあと、
それはもう、終わりを告げるに十分な侮辱と軽蔑なのにもかわらず、
また、その気持ちに何度もなることも分かりつつ、
お互い、
okey
okey
と言い合う場面.
それでも一緒にいたいと思える彼ら.

ぎゅ 
と心に響いたところである.


とそんな素敵な映画であった.

エターナルサンシャイン

78509230.jpg

ご卒業

昨日 卒業式があり
完全に卒業である.

自分でつけた区切りと異なり、
圧倒的力をもって、卒業という状況をぶつけられる.
人生これまでの卒業式で泣いたことはなく、
昨日もやはり泣かなかったが、
これまで以上に不安な気持ちになる卒業であった.
というのも、卒業後の進路のマジョリティは
就職で、昨日一緒にいた友人らもほぼ就職である.
新居も構え、もう1週間もしたら社会人である.
それに比べ、僕はまだ学生で、彼らが去った学校で
勉強をつづける...
なんとも哀しい.
もちろん院であり、ある程度の違いはあるのであるが、
追い越されていったような感覚はぬぐい去れないでいる.
さらに、院に行ったからといって
どう変わるかも分からないこの先.
不安だ.

もちろんみなと同じであれば不安が無い、
ということでもないのであるが、
まだ全く経済的に自立できていない自分に対しては
ものすごく不安を覚える.


4月 学校が始まるまでになんらかの答えを出して、
気持ち良く勉強なりなんなりをすすめたいものだ.



しかし、みなさん卒業おめでとう.
これからもよろしくおねがいします.

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