ここ何日間かの間、僕は古巣岐阜に戻り、
家族と旧友と過ごしている.
みな元気そうでうれしいのだが、
いつも岐阜に帰ってくる度に感じ、
憤りを覚えることがあるのである.
岐阜市の中心部の空洞化である.
これは本当にひどい.中心部の僕が高校生の頃は
まだ人がたくさんいて栄えていた商店街は、
もはやほぼ閉鎖し、夜の風俗店がある地域以外は、
もはや瀕死である.
さらに追い打ちをかけるように、郊外地域に
僕が知っているだけでも5つほど、ショッピングモールが
建設され、そこに平日休日問わずたくさんの人が訪れている.
人口40万やそこらの地方都市で、もちろん高齢化も進んでいる.
それなのに、この町は今や過去となっているのモータリゼーション至上型の
発展をいまだに繰り返している.
守るべき岐阜城(斎藤道三、織田信長の城である)の城下町の
町並みの中に、全く異質なマンション.
その道も車がメインの裏道である.
また、田んぼの中に建てられていく悪趣味な建て売り住宅たち.
誰がそんなに住むのか分からない、どこにでもある
マンション建築.
最悪である.
完全に崩壊している.
この町に倫理は、文化はないのだろうか.
さらに、ヨーロッパでは次々に取り入れられ、
都市再生の一つの重要なツールとなっている
トラムでさえも、岐阜市では採算が合わないなどの
理由で今月限りで全路線が抹消される.
事実、岐阜のトラムに対する扱いは最低であり、
車との共存が全くうまくいっていないと言える.
いまだに車優先なのである.
環境はそっちのである.
こんな都市は多分日本中にごまんとあるのでないだろうか.
建築家が語るのはほとんど東京などの密集地域で、
かなりエキサイティングな場所ではあるが、
本当に目を向けなければならないのは、
こんな地味な地方都市たちではないか.
都市計画家の方々はどちらかと言うとこのような都市にも
目を向けてらっしゃるようで、
表層的な部分ではあるが、町並み保存などの
手助けや運動が行われている.
圧倒的に問題なのは、政治家である.
それを支える市民である.
しかし、そんな市民教育をつくるのも
政治家である.
最悪の悪循環.
絶望のスパイラル だ.
もちろん、現在岐阜市では、駅前で企業の誘致や、
文化交流の場の提供など、様々な試みは行われている.
しかし、もっと大きなスケールで
崩壊しかけている都市の補修を進めていかなければならない.
このような場合、一つは伝統などのバックグランドから
読み込まれたような建築群が妥当である.
僕が考えていきたいのは、もちろんこれらもふまえた上での、
何らかの新しい伝統や文化というアイデンティティの定義付けから
生まれる新しい建築形態で、
そこに都市全体の経済効果も十分に織り込んだカタチで
提案をしていきたいものである.
銀行系の都市コンサルよりは、
戦略としてしっかりと経済と暮らしを見据えたタイプの
ソフトとハードの提案.
これを故郷岐阜で実現させるのが、
僕の将来の絶対的タスクであり、一つの目標である.
そのために必要なスキルが、未だ明瞭化されていないのではあるが、
少しずつ、確かにしていきたい.